こんにちは!
ベトナム・ハノイに来てもう4年目!! 日本人、ベトナム人など多くの子供達の為のダンススクールA-LIFE Dance Schoolを運営する傍ら、ハノイでイベント主催したり、新規事業始めたり、たまにハノイの生活情報を呟いたりする、自称アニメオタク&歴史オタクのダンサーNEMOTOです!
最近暇だなーってことで始めた?小学生でも分かるベトナムの歴史!シリーズ。
前回の投稿はこちら!
Ep.1 ベトナムってどこやねん!
前回のあらすじ!
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今から約3万年前、世界の人類頂上決戦に勝利したホモサピエンスがベトナムにもやってきた!やがて彼らは村を作り、部族を形作った。そんな部族が集まってできた、ベトナム史上最初の国家「文朗国」。二千年以上ベトナムの北部で栄えたが、中国の戦国時代の超大国、「秦」によってベトナムの運命の歯車が回りだす、、、。
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さて前回はベトナム史上最初の国家で、伝説的な「文朗国」が出来上がるまでの過程を紹介しました。
紀元前3世紀頃お隣の中国では血みどろの「戦国時代」!
その中に西の超大国「秦(しん)」が小国「蜀(しょく)」を滅しました。
その蜀の一族の末裔は命からがら現在のベトナム北部に逃げ落ちたそうです。
そしてそのままベトナム北部にいた部族をまとめ上げて大きな勢力を持つようになりました。
その中心にいた人物が「蜀 泮(しょく はん)」
紀元前250年代になると戦国時代の中国の勢力図は「秦」の一人勝ちのような形になってきました。
イケイケな秦はこの頃から調子に乗って侵略を繰り返します。
そのターゲットに蜀 泮(しょく はん)がいるベトナムにもやってきました!
そりゃあ、天下の秦の軍団!みんな大パニック!
ビビりすぎたのか「文朗国」は秦に対して軍隊を駐留することを許可してしまった!
それには大激怒の民衆達。
そんな時、蜀 泮(しょく はん)は怒れる民衆を率いて「甌雒(おうらく)」を建国!
そのまま6年間も抵抗を続けます!
流石に秦軍もめんどくさいと思ったのか、途中で諦めてしまいます。
勝った!あの最強の秦軍を退けたぞ!あっという間に蜀泮(しょくはん)はヒーローになりました!
勢いそのままに敵国「秦」に国を売った「文朗国」は許せない!ってことで滅して、ベトナム北部一帯の王様になりました!
彼はまた来るべき戦いに備えて都のコーロアを要塞化しました。
あ、ちなみにコーロアはハノイから北に16キロの古い街です。
時は立ち、いつしか脅威だった「秦」は滅亡したことで安泰に、、、なりませんでした!
「秦」が滅亡したことによってまた戦国時代のように中国全土で勝手に国を作って、勝手に王様を名乗るグループが出てきます!その中に中国の南を支配していた「南越」の王様、「趙 佗(ちょう だ)」がいました。
しかし蜀泮(しょくはん)が作った難攻不落のコーロア城はそう簡単に落とせるものではありませんでした。
流石にこれはめんどい。と考えた趙 佗(ちょう だ)はこう考えました。
彼は蜀泮(しょくはん)の部下を争わせたり、離脱させることで力を削いでいきました!仕舞いには、自分の娘と婚姻関係を結ばせて敵対心を薄くしました!
最後は甌雒(おうらく)で内戦が起きて、それに乗じて南越軍が侵攻。あっけなく甌雒(おうらく)は敗北して滅亡してしまいました。こうして南越と言う中国の王朝によるベトナムの支配が始まった期間のことを「第一次北属期」と言います。
ベトナムにとって中国に対する屈辱の歴史はここから始まったといえます!
そのまま南越は巨大な「漢帝国」に飲まれる形になり、自然とベトナムも支配下に入りました。
中国にとってベトナムは辺境のさらなる辺境。人々はベトナムの人々を差別し、時には厳しい税金や労働を与えてきました。それはベトナムの人々にとって憎しみを与えるきっかけになり、あるきっかけを機に反中感情が爆発する事件がおきます!!
今回はここで終わり!!
次回は「漢帝国に対する初めての大規模反乱!?ベトナムの抵抗の象徴〜ハイバーチュンの反乱〜」
お楽しみに!!
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